昭和47年3月30日 朝の御理解
                              中村良一
御理解 第64節
「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。」



信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれと。えー、信心をして、徳を受けるという、うー、それは、色々な徳の受け方というか、えー、あろうと思いますね。いわゆる、天地の機感に叶うというか、何か、天地の、おー、働きと、人間、私共の働きとの、その係わり合いが、あー、通じ合うというか、通い合う。まあ、いうならば、あー、神様のお心に叶う、何物かが、あー、御徳を受けていく事になるのですから、えー、必ず、こういう信心でなからなければならんという事はないのですね。一生懸命、えー、一にも御用、ニにも御用というように、御用を頂くということで徳を受けるという方も確かにありますし。えー、徹頭徹尾、いー、御霊様の、おー、供養をして徳を受けていくといういき方もあるのですね。もう、ただ、一生懸命に、えー、修行をする。例えば、特に、和行なんかは強い人があります。和行、願行にかけては、この人の右に出るものはあるまいと、四神様が仰ったという。福岡の吉木先生なんかの場合、初代のね、非常に願行の強いお方であったそうです。(咳をされながら辛そうに)願行によって徳を受ける人もあります。それはもう、実にもう様々ですね。けれども、私が思うのには、此方は参ってたずねる所がなかったとこう。それで、此方が、あらゆる修行もなさり、あらゆる信心もなさり、もう、実意丁寧神信心一筋を貫かれ、天地と同根とまでも、おー、天地金乃神と同根とまでも、おー、神様から讃えられなさるほどしのお徳を受けられた。いうなら、天地が有しておるところのお徳、ね。天地が持っておるところの、いうならば、徳というものを、そのまま受けられた。そのなかには、もう、様々な、あー、いき方で、例えば、今、例をあげましたが、あー、願行ももちろんなさっておる。ね。雪の日などに、外でお座りになっておられて、もうそれこそ、雪だるまのようになられながら、あの、和行をなさったという事でございますね。その事は、普通、あれには載っていませんけれども、そんな話を聞かせていただきました。まあ、そういう修行なら、まだ、お伝記など載ってないことに、幾らもあろうと思うですね。えー、もうとにかく、人の真似のできんほどしの願行もなさり、だけではない、もう、おー、教えにちゃんと残っておりますように、此方の行は、(咳をされる)此方の行は、家業の行じゃと仰って、もうその、家業そのものに、実意丁寧の限りを尽くされるといったような行をなさったり、また、和行よりは、心行しよと、もう段々、最後のころには、もう殆ど、心行一つに行を絞っておい出ておられますよね。まあいうならば、まあ本当に、いー、限りなく美しゅうならせていただこうと、私共は申しておりますが、もう、自ずと美しい心の上に、研きをかけられるのですから、あー、もう、そりゃ、見事なことであっただろうと。なるほど、天地の親神様が、あー、ほとほと感心なさっただろうと、あらゆる、あらゆる角度から、あらゆる角度のお徳を身に受けられた。だからこそ、天地金乃神と同根とまで仰せられた。ね。そういう方の信心を、私共が頂かせてもらうのですから、その全部が、なかなか出来るという事は、難しい、至難のことであります。ですから、せめて、ね。教祖生神金光大神のどこからか、あの、金光大神を通して、天地に通い、ね。天地との交流を計らしてもらう、天地のお徳を受けさせて貰う、えー、手立てが必要だという事になります。それで、ほんなら、ここではその、どこを受けておるかと、合楽では。そこで、ここでは、金光大神のお取次ぎを頂いて、私が受けておるところのおかげ、私が受けておるところのお徳ということまでは当てはまらんかもしれませんけれども、まあ、私が受けておるところのお徳は、どういうような、あー、いうなら、いき方。教祖金光大神のどこを頂いての、おー、今日の合楽の信心であるかという事をです。皆さんが分かられて、そして、ね。えー、たずねる所のなかったと、教祖様の仰る、ここでは、ほんなら、此方、いうなら、ここでは大坪総一郎、この人がです。おかげを受けておる話を、皆さんは聞いていただくわけでございますから、どうしても、なら、大坪総一郎が受けておる信心の流儀といったようなものがです。皆さんの信心に現れてくることが、本当だという事になります。
沢山、お参りをなさいますけれども、なかなか、やはり、その人その人の考え方もありますしね。勿論、私共よりも、うんと高度な、もっと間違いのないいき方をしている方も有りましょう。けれども、合楽でおかげを頂きたいというなら、やはり私は、何時も申します、合楽の良かとこだけっといった様な事では、絶対、良かとこだけはいただかれるもんじゃない。もういうならば、合楽の良かとこも悪かとこも、一応は、まあ、マスターするというわけではないけれども、ま、良かとこも、悪かとこも先ず、頂いて、ね。悪か癖まで、皆さんの信心の上に現れてくるというぐらいな、そして、後に、いけない所は取らせてもらうというようないき方にならないと、本当は、合楽の信心を身に付けるという事は出来ないだろうと。そのためには、私自身がです。もっともっと力を受けて、もっともっと、なるほど、ああいう信心すりゃ、(咳き込まれる)ああいうおかげが、ああいう徳が受けられるんだと、おー、手本になるような、信心とおかげを示していかなければならないことは勿論であります。ね、どうしてもね。どんなにありが、あの、私の言うとおり、私の言う通りという様な事を、に、本当と思えない人がある。私流儀に、どうしてもなれない人がある。もういうならば、もう、あそこは合楽の悪いところ、そこは親先生のいけないところと言ったような、もう、はっきり、こう選り分けて、良かとこだけを頂こうとこうするのである。そういう、やはりタイプの人も、幾らもあろうと思います。いわゆる、なんと申しますかね、非常に信心が真面目である。けれども、合楽流には染まらないという人がある。ね。ま、染まる、染まらないが、良い悪いじゃないけれども、私は、どうでも、おー、でないとです、徳を受けて身しのぎをするようになれというような、所になって来ないと思うです。
昨日は、うー、そこの野口つぁんのところの、まあ、恒例の謝恩祭がございました。もう、私はもう、どこの宅祭りに参りましてからでも、思うんですけれども、本当に、宅祭りに参りますと、やはり、そこの神様のゴヒレイというか、あー、そこの中心になる人達の信心というか、それに生に、じかに触れさせて貰う。ね。ゴヒレイに浴させて貰うことが出来る。ほんとにおかげを頂きます。昨日なんかのお祭りも、やっぱりそうでした。私は、そういう意味でですね、その、野口つぁんあたりのご信心は、合楽の信心を、もう、真っ向から頂いておられると思いますね。もう、その代わりに、良いとこ、悪いとこも、受けていかれるという感じです。だから、現れてくるおかげが、もう実にですね、合楽流です、見事です。これは、例えば、お祭りだけのことじゃありません。もう本当に合楽流です。まあ、私が、ここで語るより、皆さんが、あー、野口の信心を見られたり、聞かれたりされたが、一番、なるほどと合点がいくだろうと思います、ね。しかも、一家親戚を挙げて、そういういき方で進まれます。もうそれは、何というでしょうかね。子供達がその、信心になって行く、その、なっていく具合の素晴らしいことね。そらもう見事です。またあの、いろいろおかげを受けていかれる事にもです。もう実に、もう合楽流儀ですね、おかげの現れ方が。(咳き込まれる)ちょっと見ると、強引なところがあるようにあるけれども、一つも強引じゃないですね。もう、どこまでも合楽流、合楽の流儀です。子供達でも強引に引っ張ってくるとか、強引に、押さえつけて教えるとかと、まあ、そんな感じが、ちょっとするようですけれども、実を言うたらそうじゃないです。もう、合楽流儀に任せきっ取れば、合楽流儀のおかげを受けておられる。受けてくるということです。ね。んー、例えば今の、おー、長男の信心、弘樹さんの信心なんかでもそうです。一人一人の子供達が、みんな、お母さん流に信心を進めていき、長男だけが信心がなかった。ところが、あの、嫁さんを貰うてから、あー、熱心に信心をさせて貰うようになってきた。もう、お祭りの前後というか、ま、お祭り前の、色々なその、出来事とか、事柄の中から、もう本当に合楽流儀だなあと思うんです。ね。あちらの嫁さんを、おー、貰われる時に、もう大体、九分通り話が決っておった時に、その、どうでも、創価学会になってもらわなければならんという、その、交渉が向こうからあった。本人がもう、それこそ長々と手紙を、その野口つぁん宛てに出してる。もうそれこそ、それを読むと、今でも、あの、富永さんが言われますが、もうガタガタ振るいだすごたる事を書いてあった。ね。だから、もう、この一事だけでも、ここまで話は進んでおるけれども、断ろうという事になった。ね。宗教の違いというね。思想の違いというものは、なるほど、宗教戦争なんていうような事が言われるのは、こういうような事だと思いますね。それで、富永さんと野口つぁんと、そのことをお願いに見えられて、その手紙を持って見えました。私も、その手紙を読ませていただいたが、ほんなこて私も、手の振るうごたることが書いてあった、内容に。ね。まあ、ああいう風に、ああいういき方でなからないが、まあ言うなら、創価学会のいき方らしいんです。ね。けれどもね、あの、こちらが金光教の信心をさせて頂いておるからいかんというなら仕方がないけれども、それは、嫁が、創価学会なら創価学会でもいいじゃないですか。こちらはちゃんと、御道の信心をしていけば良いのであるから、ね。縁あってその時のことは忘れましたけれども、それは問題じゃないと。ね。こちらの信心さえ、ちゃんとしていけば良いんだという事で、そこでまあ、腹を決められての信心であった。(咳が出る)初めの間は、なんか妙な風だったですけれども、もうその、言うならば、合楽流の信心の雰囲気の中に入ってきたら、もう、本当に、合楽のしん、いわゆる、野口つぁん達が頂いておられる信心の素晴らしいことが、嫁ごたちに、嫁ごに分かってきたのです。金光様ち有難いですね、素晴らしいですねというようになってきた。勿論、その都度いろんなことがある。あるたんべんに、お取次ぎを頂いてお願いをする、おかげを頂く。もうそれこそ、創価学会の創の字も言わん。それこそ、金光教の信心の、いうならば、合楽の信心の素晴らしいことに、一生懸命になるもんだから、息子の弘樹さんも、嫁後について、一生懸命にならんわけにはいけん。今度の宅祭りなんかにはもう、二人のものが、もうそれこそ一生懸命、いろんな意味で。ね。これはもう、その一言で、もうとにかく、起きてくる、その一言一言が、合楽流な事が起きてくるわけですね。合楽流に、それを解決していく。私は確かに、昨日のお祭りを拝ませていただいて、思わせていただいて、野口つぁんは、身にも家にも徳を受けていかれよるなあと思いました。ね。そして、身しのぎが出来よりなさるなあと思いました。もうそれこそ、話を聞かせて、また今日、お礼に出て見えて、まあ、こまごまとしたお届けがある事でございましょうけれども、もう本当に、一から十まで、神様のおかげを頂かなければ出来ることではないというほどしのおかげである。昨日、私共が、あちらへやらせて頂いて、ちょっと一足遅れて、富永先生が見えておりましたが、奥さんはもう、前日から御用頂いておられる。もうその、めったに例えば、お参りにならない、富永先生が、もういつの間にか、合楽流になっていかれておるとに、これはまた驚きですね。
先日からの、事故の合って以来、お友達の先生方が、もう本当に、富永先生、あなたは、ついとりなさると。とにかく不死身だと、不死身だと。ね。お医者さんが言われる、もう、何ミリの相違で、命取りというような事だったそうですね。それからその、この、ぶっつけられた車が、その十メートルも跳んだ、そのところには、その助手の人がおったそうですが、その足元に、その自動車が落ちた。自分だけではない、相手の人も、本当に、間一髪の所で、命拾いをすると言うほどしの、まあ、色々なおかげを、実際、見たり聞いたりしてですたい、先生方が、そう言われた。だから、富永先生がその、「私は申しました」ち、「いんやー、ふが良かったとか、ついとるという事じゃないです。実を言うたら、私はこうやって、えー、金光教の信心さして貰うが、合楽の教会に参って、こうこうです」という事を言われたら、「そういう神様がござるな、どうでんこうでん私も連れて参ってくれ」と言うて、先生方が仰るそうです。と、言うておられますと言うて、今日、富永先生、見えてから、その事を話しておられます。このお祭りも丁度、二十三日の日でございましたから、こら、あー、二十九日のお祭りには、とても出られまいから、日にちをまあ、延ばしていただくわけにはいくまいかと。まあ、合楽の親先生のいき方が、何が何でも、そういう事は、あー、まあ、いうならば、押し切って、神様から頂いた、その日柄というものを大事にされるから、とても出来まいけれども、一遍、お伺いだけでもしてみて、ということだった。小倉から、富永さんが、その事を電話をかけて見える時に、先生はそばで休んでおられた。ね。そしたら、いいえ、やっぱり二十九日に致しますよという時に、寝ながら、富永先生が、こう思いましたち、ははあ、私は、二十九日には、お参りが出来るほどしにおかげ頂くなあと思うたとこう。そういう頂き方なんかはもう、実に合楽流ですはね。ところが、その翌日、レントゲンを撮られたところが、全然、どっこにも故障がなくて、ただ、胸が少し痛むと、そすと、歯が、下のほうの歯が欠けておるという。欠けてというか、こうゆるんで、ガタガタになっておる、抜けてしまっておるわけではない。という様な事だけでございましたから、もう、別に、えー、自分でやっぱりあの、ご兄弟が自動車を運転して、お参りになっておられます。そういう例えばその、野口つぁんの信心がですね。その、いわゆる、娘、また、娘婿たちに伝わっていく、その具合の、合楽的であることに、もう驚くばかりです。これは、富永さんだけではありません。町田さんたちの場合もそうです。もう、肝心要の今の、なら、自分の長男の弘樹さんとか、その嫁の晶子さんの場合に伝わっていく、その具合というものがね。もう実に合楽的です。だから、如何にそこにおかげを頂いておってもです。合楽的な、そういう、これは素晴らしいところがですね、実際、自分の周囲に、家庭のなかにも起きてこなかったらですね。やはり、合楽の信心させて頂いておってからでは、ちょっと可笑しいですね。いかに選り好み、合楽の信心の、ただ、はー、なるほど、ここんとこは先生の仰った、なるほどと。なるほどと合点がいかなければ、それを、行の上に現さないといういき方。ね。合楽に縁を頂かれて、ね。当時の椛目に縁を頂かれて、その、いわゆる、からこっちの信心の進みというかね、信心の、おー、いうなら、どういう風に展開してきたかという事をですね。皆さん知っておられますから、一遍、思うてごらんなさいませ。野口つぁんの信心と展開というものを。
参ってたずねる所がなかった。そこで、教祖金光大神は、あらゆる、まあ、その、教祖ご一人が、お隠れになられてから、私共が思わせて頂くのに、あらゆる角度から、天地の信用を受けられる、天地の徳を受けられる内容を持っておられた。しかし、そういうことが出来るとは思われない。そこで、どこにか絞られなければならない。そこで、合楽はどこに絞っておるかという事なんです。私は、どこに絞っておるかという事なんです。ね。(咳き込まれる)
昨日、野口つぁん所へ参りましたら、小さい紙切れに書いてあってあるのを、それを額の中に入れてありました。それに、いー、天地に和するという事は、ね。信心をしなければ頂けませんというような事が書いてあった。合楽の信心は、どこまでも、天地に和しておると思うのです。例えて申しますと、ね。何時も、いうなら、天地そのものがバックであるという事です。例えば、御徳、いろいろな意味でのお徳を受けると言うてもですね。もうあの、ただ、御徳を受けておかげを受けられる。身しのぎの出来るほどのおかげを受けられるけれども、何とはなしに、天地とは、別物のような感じで、御徳を受けられるという人もあります。ね。合楽の場合、何時も、じっとこう、目を瞑って、えー、おりますと、ね。天地が奏でて下さるというか、そういう一つのリズムに、何時も乗っておるということです。それで、何時どんな、どういうことが起こっても、バックは天地だと。天地の親神様だと。天地の親神様が後ろ盾だと思いますから、度胸も出来て来る。私は、一番、合楽でおかげを受けておるのは、それを、事実に実感できると言うことだと思うです。ですから、これは、合楽にご神縁を頂いておる全ての人が、そういうところを、おー、辿らせて頂きながら、自分、その、信心を進めておるのでございますけれども、おかげの上においてはです。ね。いうならば、私の信心を、ね。そのまま、受けるといういき方の人は少ないです。そういう意味で、例えば、野口つぁんな、の場合は、もう本当に、合楽の信心を、の雛形な様なものを感じますね。だから、言われることも合楽流儀であるし、ね。起きてくることも、合楽流儀になるであるし、それをおかげにして行く、おかげに成って行く具合もやはり、合楽的なのであります。その辺の、すっきりしている具合というものは、もう、どういう事になったら、あー、そういう風になれるだろうかと、こう思うのですけれどもね。えー、やはり、いー、取次ぎ者を信ずるということからじゃないでしょうかね。それこそ、秋永先生じゃないけれども、とにかく、親先生の言われる通りにして、それが良し、地獄道に繋がっておっても、もう、さらさらいとわんと、そういうようなものがあるんですね。はあー、おかげをいただかにゃんばってん、そら、地獄まで一緒に行かれんと、言ったようなものが、何とはなしにあるんじゃないでしょうかね、みんなに。そういう、やはりあの、段々信心度胸が出来てくるところにです。もう、絶対、私の、その、自分の合点が行くところには、「はい」というけれども、合点が行かなかったら、絶対、「はい」と言わん人が沢山おりますよね。ここんにきは、まあ、良かとこ悪かとこちいうような感じがしますけれどもね。けれども、やっぱ、そこ一遍は、やはり、通らせていただかなければですね。本当の、合楽の味わいというものは、私はいただけないと思うです。そして、おかげがね、合楽流になって来ないと思うです。おかげというのは、ただ、商売が繁盛するとか、あー、無事息災というだけの事じゃありません。今の、あの、野口つぁんの場合で言うならば、その人間関係の上においてもですね。その、周囲周辺が、あの、信心になっていかれる、その具合というものがですね。もう、実に合楽的です。ね。
今日はその、野口つぁんの信心をもって、えー、信心して、徳を受けて、身しのぎをするようになれと。まあ、そういう意味での、ちょっとした、私は手本ではなかろうかとこう思います。そこで、私はあの、おー、野口つぁんの信心をです、一遍思うて見る。あのいき方を、おー、なるほどと合点の行くところまで、やはり、研究してみるという必要があるのじゃないかと思います。あそこが、本当に、人の真似の出来ん、合楽的なとこだもんねと言ったようなものを備えておられる、段々。ね。そして、確かに、昨日もあちらで申しましたように、ね。信心しておれば、一年一年有り難うなってくるという、その有り難うなって行かれておる様子がです。例えばあの、宅祭りの中に、はっきり見ることが出来るです。あそこの場合。ね。信心をしておれば、一年一年有り難うなっていかなきゃならない。ね。その、ほんなら、お祭りならお祭りの、その取り組み方、取り組む姿勢というようなものは、もう本当に、もう、私共が、あー、昔、自分のうちで宅祭りを仕えておったときの、その時分の事を、こう、彷彿として思い出させるようないき方で、お祭りが仕えられて、そして、もう本当に、もう、一から十まで、神様のおかげで出来たという感じのお祭りになっていく。(咳が出る)もう、例えば、夕べ、お夕食を、あっちで頂くときに、親先生、これは、誰々さんが親先生に差し上げてくださいと言うて、これはどこから、こうして頂いて、これは先生、誰さんがこうやって持ってきて下さった。一件づつ、説明をされるのを聞かせて頂いて、本当に、野口つぁんじゃなかね、神様じゃなと思います。ね。身しのぎができていかれる。こら、皆さん、本当にですね、その、それで完璧ということじゃないですよね。昨日、私は、佐田さんのことを、えらいこの、まあ、まあ言うなら褒めてお話しました。そしたら、佐田さんの奥さんがその、頂きながらいただいてあるとが、バックが富士山じゃった。富士の山だった。そこでこうやって、凧を揚げよるとこを頂いた、凧を。だからその、もう富士山と、その凧とが、もう一緒の高さのごとある。というようなその感じ、ね。だから、いうなら、昨日のお話はですね、富士山というものが実際、本当なものであるとするならばです。ただ、凧であがってあるだけであってです、実際は、まだまだ、一歩一歩その、頂上目指して進んでいくという内容にならなければならないという事である。後からまたお届けが、あの、午後から、叔母ちゃんが参ってきてお届けされるのに、帰ってから恵美子さんが言いますのに、あん、凧という字ば、書いてあったごたったが、凧という字は、あれは鳳という字じゃったことに、また思い出したち言うてから、ああいう、御神願ちそうですね。凧と先ずは思わせて、次にはまた、鳳というふうに思わせる。それがご理解なんです、ね。ですから、確かに、将来の大物を目指すということだと思うんですね。ですからその、昨日、私が、いった、あー、お話を申しました中から、佐田さんの信心を言うともう、ある意味で、佐田さんの信心は完璧と言うようにあるですけども、実際は、富士山と一様のごたるけれども、凧で揚がっておるようなもんだという事であってね。まあだ、まあだ、それこそ、一生がかりで、一歩一歩頂上を目指すという事にならなければいけないことである。なら、今日の、野口つぁんの場合でもそうです。ね。確かにあの、皆さんも聞いてくださって、嘘とは思われないだろうと思われますように、ね。野口つぁんの信心は、確かに合楽的です。だからほんなら、合楽の信心を、その、良しも悪しも、全部頂いておられるから、全部マスターしておられるかというと、まあ、さに非ずというところ。まあだまあだ、身しのぎのできる、徳を受けるという事はもう、限りがないことなのですからね。ね。だから、まあ、そういう、うー、風に、例えば、野口つぁんはおいでならなきゃならないのですけれども、たとえば、私共としてはです、なるほど、あすこが、野口つぁんの合楽的ところだなあといったようなところはです。やはり、研究させていただいて、自分の信心に頂いていかなければいけない事だと。なぜかというと、それは、どうしても合楽にご神縁を頂いて、合楽で頂いておる、合楽流のおかげを願われるならばです。ね。願われるならば、やはり、合楽流にならなければ、本当の合楽流のおかげにはなって来ないという事です。それは、私共よりもっと立派な考え方、もっと立派な信心をしておるにしましてもです。ね。一応は、やはり、悪いとこなら、悪いとこをもう一遍頂いて、そしてのちに、それが、良いものに、ね。また、あー、捨てるところは捨て、取るところは取っていくといういき方にならなければいけんけれども、やはり、一応は、合楽流というものでないとですね。そら、おかげと言うたっちゃ、いっちょんおかげと思わんです。合楽流にならんと。そらあんた、おかげじゃんのち言うたっちゃ、はー、そうですねちもう、すぐおかげと、合楽流でいくと受け、たとえばあの、久留米から参ってみえます、あの大場さんなんかは、ご主人がもう、お夢のお届けをされるたんべんに、しという字を頂くち言う。起きてくることがみんなしばっかり。それを何時も頂かれる。昨日も、奥さんからお届けがあったんですけれども、もう、俺んとこの店は、もう来月はしまえるぞち言うちからいわっしゃる。もう、しばっかりじゃから。けど、私は、その事については、合楽ではしとは頂かん。よんとしか受けんばのと。いつか、高橋さんでしたかね。なんか、しの、良しとか、(届けよかなんかいう?)、椛目の時代に受けられたことがあるですけれども、もう、本当に死んでしまうような事柄が、良しと受けた途端に、ひっくり返るごたるおかげになっとりますからね。だから、私がそれを何回言うてもです、合楽流に、本当にならんもんですから、自分なりに、うんにゃ、こら、し、ち言うてから、こらもう、しに違いない、(わるいこうせんせい?)に違いないとこう頂かれる。はー、親先生が、ほんなこと、しじゃない、良しで受けなきゃならんなと。たとえば、受けたら、もう絶対、合楽流にひっくり返って、いうならば、良しになってくるとです。ね。それを、やっぱり、悪かお知らせとして、自分で頂く。これは、本当に合楽流がまだ身に着いておらんからです。とにかく、合楽流を身に付けられますと、楽しゅうなる、信心が一段と。ね。そして確かに、もう、一年一年、有り難うなってくる。なるほど、神様に、のほうへ向けて進むということがです。もう、どれだけ、打ち込んでも打ち込んでも、打ち込みがいが出来てくるという。だからもう、馬鹿んごつなって、合楽流儀になってしまわれるということ。ね。そこから、私は、おかげを受けていくという、ね。それは、合楽にご縁を頂いて、合楽の信心を頂こうというならば、そこのところのおかげを頂かねばならん。それをまあ、野口つぁんの信心から頂きました。
「一心に、まめで繁盛するよう、元気な心で信心せよ」と。これは、御理解二十八節にございますね。元気な心の出しどころです、いうならば。ね。その人その人流儀で、元気な心でやっとりますけれども、それじゃあいかんと、今日、私が言ってるわけです。ね。合楽流の元気を出さなければいけないと。まめで繁盛するよう、元気な心で信心せよ。その、元気な心を出しとるからこそ、こうしてお参りも出来とるならば、もう一つ、元気な心でです。ね。合楽流を身に付けさせてくださいと、元気な心での信心を願わなければ行けないと思うですね。どうぞ。